福井ブラスアカデミーは、昭和52年(1977年)1月30日、「社会人になっても吹奏楽を楽しめる場を!」という福井県内の吹奏楽愛好者達の熱い想いによって結成されました。
福井県を中心として活動しております。
高校生から社会人まで、様々なメンバーが所属しており、
春は定期演奏会、夏・秋はコンクール、冬はファミリーコンサートと、
活発な活動を行っています。
また、営業としての演奏活動も行っており、様々なイベントにお声をかけて頂いています。
少人数のアンサンブルから大人数の演奏まで、ご要望に合わせた演奏を行っています。
昭和50年頃、福井県内では中学、高校の吹奏楽部によって育てられた多くの吹奏楽愛好者たちの熱い想いを託す、常時活動する市民バンドがありませんでした。
他方では、新しいアンサンブルや交響楽団が設立されており、音楽活動がとても活発になっていました。
そのような中、吹奏楽を愛する者が、常に吹奏楽の響きに出会える自分達のバンドを持ちたいと考えたのも、当然の欲求だったと思います。
まず、その設立の胎動は福井市交響楽団の管打楽器奏者の間からはじまりました。
当時の「市響」の管打楽器奏者は全て吹奏楽の出身者で占められており、同時にそれまで福井の一般バンドの一翼を担ってきたメンバーでもあったわけです。
彼らはいかにして福井市のみならず全県的に新しい吹奏楽団の性格をアピールするべきか、何度も何度も段階をふまえて会合を重ねました。
最初の作業は、それぞれが心に思い描く理想とする市民バンド像を、お互いにぶつけ合うことでした。
様々な意見が飛び交いましたが、最終的に、広く一般の吹奏楽愛好家が参加できて、民主的な運営がなされるコンサートバンドを作ろうということで一致しました。
次の段階では、団の名称と、いかに団員を募集していくか、同時に学校、団体、個人から支援をうけるにはどうしたらよいかが話し合われました。
団の名称は、吹奏楽を楽しみながら、常に学び、探求してゆくことを忘れないという意味で「福井ブラスアカデミー」と決定しました。(今でこそ「アカデミー」の略称で通っていますが、決定したとき、これは大変な名前になったなあという思いがあったことも事実です笑)
そして、発起人たちが将来団の中核になりうる人々に個別に会い、入団の勧誘をはじめました。また、協力して下さる方々に、新しくできる市民バンドの設立の経緯、その性格の説明に奔走しました。そして、練習場を探すことが大きな問題でした。
何か所かの公共施設が候補にのぼり、交渉にあたりましたが、返事は芳しくありませんでした。その中で、花園幼稚園さまが快く貸して下さることを約束してくださいました。
「福井ブラスアカデミー」が成長し現在あるのも、常に一定した練習場が保証されていたことが大きな役割をはたしていたと思います。
そして1月30日に、待ちに待った「福井ブラスアカデミー」の臨時総会が開催され、厳寒の中、42名もの参加を見ました。
そして、浦井和美氏と清水八洲男氏の指揮で初めての音出しをして、「福井ブラスアカデミー」は産声をあげました。
私たちの救世主となったのは、辻井清幸先生でした。
先生との出会いは結団2年目のことで、その時はサラリとしたもので、現在の関係など誰も想像できないようなものでした。
その2年後、夏に実施されていた高校音楽フェスティバルに辻井先生がお見えになり、周りの先生方のお口添えもあり辻井先生に直接アカデミーのことをお願いするチャンスを頂きました。
先生との出会いのことや現在の福井ブラスアカデミーの状況を聞いて下さった後で、「客演指揮OK」の返事をいただいたのです。本当にラッキーでタイムリーなお話でした。
先生の福井ブラスアカデミーへのアドバイスは2年続きましたが、2年目の反省会で「来年は一度自分たちで初心に帰って努力してみなさい」と言われました。これはいつも外に頼るのでなく自分達の力を貯めなさいという意味だったのだと思います。
予想通り翌年の私たちの努力と燃え方は今まで以上のものになりましたが、音楽的には今一つ満足を得られないような気持ちが残りました。
その翌年5月のバンドクリニックでのことです。辻井先生は直接保科先生に「保科君!一度、福井ブラスアカデミーの面倒を見てやってよ!」と声をかけてくださったのです。これは前々から「一度保科先生にみてもらうといいんだがな」と言っておられた辻井先生の温かい親心からでした。
これが保科先生との出会いとなったのです。
その年の第7回定期演奏会での保科先生の音楽の創り方や音楽に対する情熱には団員一同大変な感動を受けました。
その日の反省会は、定演に駆けつけてくださった辻井先生も交えて盛り上がりをみせました。その時の会話の一部をここに書きますと、
「皆さん!ご静粛に!ぜひ私たち福井ブラスアカデミーの10回記念演奏会に保科先生の新曲を!」
「うーん、困ったなあ・・・、もし辻井君が初演の棒を振ってくれるなら・・・」
すかさず辻井先生は
「いいよ!」
反省会の会場は割れんばかりの大喝采、その約束はお二人の連携で今回見事に実現のはこびとなりました。
そして委嘱いただいた作品が「シンフォニック・オード」です。
福井県を中心として活動しております。
高校生から社会人まで、様々なメンバーが所属しており、
春は定期演奏会、夏・秋はコンクール、冬はファミリーコンサートと、
活発な活動を行っています。
また、営業としての演奏活動も行っており、様々なイベントにお声をかけて頂いています。
少人数のアンサンブルから大人数の演奏まで、ご要望に合わせた演奏を行っています。
設立の経緯
「福井ブラスアカデミー」がどのような理由で誕生したのか、その一番の理由は、当時福井市内に吹奏楽の好きな者が常に参加してゆけるバンドがなかったことです。昭和50年頃、福井県内では中学、高校の吹奏楽部によって育てられた多くの吹奏楽愛好者たちの熱い想いを託す、常時活動する市民バンドがありませんでした。
他方では、新しいアンサンブルや交響楽団が設立されており、音楽活動がとても活発になっていました。
そのような中、吹奏楽を愛する者が、常に吹奏楽の響きに出会える自分達のバンドを持ちたいと考えたのも、当然の欲求だったと思います。
まず、その設立の胎動は福井市交響楽団の管打楽器奏者の間からはじまりました。
当時の「市響」の管打楽器奏者は全て吹奏楽の出身者で占められており、同時にそれまで福井の一般バンドの一翼を担ってきたメンバーでもあったわけです。
彼らはいかにして福井市のみならず全県的に新しい吹奏楽団の性格をアピールするべきか、何度も何度も段階をふまえて会合を重ねました。
最初の作業は、それぞれが心に思い描く理想とする市民バンド像を、お互いにぶつけ合うことでした。
様々な意見が飛び交いましたが、最終的に、広く一般の吹奏楽愛好家が参加できて、民主的な運営がなされるコンサートバンドを作ろうということで一致しました。
次の段階では、団の名称と、いかに団員を募集していくか、同時に学校、団体、個人から支援をうけるにはどうしたらよいかが話し合われました。
団の名称は、吹奏楽を楽しみながら、常に学び、探求してゆくことを忘れないという意味で「福井ブラスアカデミー」と決定しました。(今でこそ「アカデミー」の略称で通っていますが、決定したとき、これは大変な名前になったなあという思いがあったことも事実です笑)
そして、発起人たちが将来団の中核になりうる人々に個別に会い、入団の勧誘をはじめました。また、協力して下さる方々に、新しくできる市民バンドの設立の経緯、その性格の説明に奔走しました。そして、練習場を探すことが大きな問題でした。
何か所かの公共施設が候補にのぼり、交渉にあたりましたが、返事は芳しくありませんでした。その中で、花園幼稚園さまが快く貸して下さることを約束してくださいました。
「福井ブラスアカデミー」が成長し現在あるのも、常に一定した練習場が保証されていたことが大きな役割をはたしていたと思います。
そして1月30日に、待ちに待った「福井ブラスアカデミー」の臨時総会が開催され、厳寒の中、42名もの参加を見ました。
そして、浦井和美氏と清水八洲男氏の指揮で初めての音出しをして、「福井ブラスアカデミー」は産声をあげました。
先生方との出会い
福井ブラスアカデミーがここまで続けてこられたのには、もちろん応援してくださる方々のお力もありましたが、何を言っても大きいのが辻井先生、保科先生をはじめとした先生方との出会いです。私たちの救世主となったのは、辻井清幸先生でした。
先生との出会いは結団2年目のことで、その時はサラリとしたもので、現在の関係など誰も想像できないようなものでした。
その2年後、夏に実施されていた高校音楽フェスティバルに辻井先生がお見えになり、周りの先生方のお口添えもあり辻井先生に直接アカデミーのことをお願いするチャンスを頂きました。
先生との出会いのことや現在の福井ブラスアカデミーの状況を聞いて下さった後で、「客演指揮OK」の返事をいただいたのです。本当にラッキーでタイムリーなお話でした。
先生の福井ブラスアカデミーへのアドバイスは2年続きましたが、2年目の反省会で「来年は一度自分たちで初心に帰って努力してみなさい」と言われました。これはいつも外に頼るのでなく自分達の力を貯めなさいという意味だったのだと思います。
予想通り翌年の私たちの努力と燃え方は今まで以上のものになりましたが、音楽的には今一つ満足を得られないような気持ちが残りました。
その翌年5月のバンドクリニックでのことです。辻井先生は直接保科先生に「保科君!一度、福井ブラスアカデミーの面倒を見てやってよ!」と声をかけてくださったのです。これは前々から「一度保科先生にみてもらうといいんだがな」と言っておられた辻井先生の温かい親心からでした。
これが保科先生との出会いとなったのです。
その年の第7回定期演奏会での保科先生の音楽の創り方や音楽に対する情熱には団員一同大変な感動を受けました。
その日の反省会は、定演に駆けつけてくださった辻井先生も交えて盛り上がりをみせました。その時の会話の一部をここに書きますと、
「皆さん!ご静粛に!ぜひ私たち福井ブラスアカデミーの10回記念演奏会に保科先生の新曲を!」
「うーん、困ったなあ・・・、もし辻井君が初演の棒を振ってくれるなら・・・」
すかさず辻井先生は
「いいよ!」
反省会の会場は割れんばかりの大喝采、その約束はお二人の連携で今回見事に実現のはこびとなりました。
そして委嘱いただいた作品が「シンフォニック・オード」です。
曲想は保科先生の曲らしくロマンティックな美しいものとなっています。典礼風なファンファーレに始まり、それが複雑に交錯し盛り上がっていきます。中間部では穏やかで美しいメロディーが私たちを魅了します。再び最初のテーマが戻ってくると終結部へ向けてテンポもアップし、一気にクライマックスを迎えます。
「シンフォニック・オード」以外にも、保科先生には記念の折に委嘱作品を創っていただいています。
・ソロマリンバとウィンドオーケストラのための「カプリス」(第15回定期演奏会委嘱作品)
・メモワール(第20回定期演奏会委嘱作品)
・音づくりのエチュード(第25回定期演奏会委嘱作品)
・オペラ「はだしのゲン」セレクション(第30回定期演奏会委嘱作品)
委嘱作品ひとつひとつに辻井先生・保科先生と福井ブラスアカデミーの物語があります。
これからも、いただいたご縁を大切に、より良い音楽をお届けできるよう邁進していきます。
「シンフォニック・オード」以外にも、保科先生には記念の折に委嘱作品を創っていただいています。
・ソロマリンバとウィンドオーケストラのための「カプリス」(第15回定期演奏会委嘱作品)
・メモワール(第20回定期演奏会委嘱作品)
・音づくりのエチュード(第25回定期演奏会委嘱作品)
・オペラ「はだしのゲン」セレクション(第30回定期演奏会委嘱作品)
委嘱作品ひとつひとつに辻井先生・保科先生と福井ブラスアカデミーの物語があります。
これからも、いただいたご縁を大切に、より良い音楽をお届けできるよう邁進していきます。